型染めは奈良時代前期に大陸から日本に伝わり、江戸時代には小紋染めなどが広く行われたといわれています。
染色用具である型紙(伊勢型紙)の起源は、史実状確固たる史料・伝承がないため、明確ではありませんが、いくつかのの伝説・伝承があります。
神亀年間(724~728・奈良時代)に「孫七」という人が型紙業を始めたとか、現在の鈴鹿市寺家町にある子安観音寺の不断桜の虫食い葉を見て面白く思った久太夫という人物が、虫食い葉を紙に当てて彫った、などというものもあります。
また、型売株仲間について書かれた「形売共年数暦扣帳」には、延暦年中(782~806・平安時代)に「白子地方に型売り四人あり」と記されています。
少なくとも室町時代末期(500年程前)には、「白子型」と呼ばれるものがあり、型紙はすでに全国的に流布していたようです。(狩野吉信の「職人尽絵」に型紙を使用している染職人が描かれています。)
江戸時代に入り、白子村・寺家村(鈴鹿市)が徳川御三家のひとつ紀州藩に編入され、その保護政策が、型彫り・型売行商を飛躍的に発達させました。型売りの「株仲間」という組合的な組織も形成され、業者数の固定や価格の均一化によって、値崩れ・乱売・技術の低下や流出を防ぎ、発展していきました。白子港が江戸に木綿を積み出す商業港であったことや、奈良・京都など内陸へ海産物を運ぶ交通の要所であったことも、全国的な型紙販売の組織を形成できた要因と推測できます。
強力な専売体制は、明治まで続き、その後、彫りの技術は京都など全国各地に分散しましたが、地紙(渋紙)の生産は現在でも100%白子・寺家地区で行われています。地紙製造の際の「室入れ」も、明治時代に考案されました。
大正十年には、型紙に絹の網を漆で貼り付けて補強する「紗張り」という技法が考案され、「糸入れ」技法に替わるものになりました。

近年は、生活様式の変化によるきもの離れは著しいものがあり、また、手彫りに代わる写真型の技術が確立されたため、伊勢型紙の生産は激減しているのが現状です。
他にも多くの資料があると思いますが、ご参考までにご紹介します。
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伊勢型紙の彫刻などの画像(主に静止画。動画もあり。)
独立行政法人 情報処理推進機構(IPA)「教育用画像素材集」>匠の技と心 - 染織(せんしょく)![]()